bullet020.gif2005年06月26日

■ 六義園 ■

今日はてくてくと六義園へお散歩に。

入館料300円。まぁ、ここら辺じゃ、普通だわな。

でもって、吹上茶屋にて抹茶で一服〜。ぷふぁ〜。極楽×2。

…なんつーか、こー言うのってええなぁ…。
例によってだれか隣にいてくれる人がいれば何も言う事なしな所なんだがなぁ〜。(ぐすっ


いや、もうひとつ言う事があった。選挙カーがうるさい。マジシメル。
つーか、静かな公園の周りで騒ぐな。おまいら暴走族とやってる事変わらんぞ。

…とか、とりとめも無く考えながらぼぉ〜っとしてきたウィルでした。
posted by ウィル at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 散歩

■ 論破・論駁の意味合いについて ■

前項のエントリを踏まえて言わせていただくと、

 おいらが論破・論駁型の議論と言っているのは、相手が受け付けない形での反論を相手が受け付けないままに持っていこうとする(あるいはあきらめてしまっている)態度そのものであり、相手が受け付けていない以上、自分にとってそれが「相手の意見に対する否定」であろうが、「相手に対する否定」であろうが、果てはそれが論理的なものであろうと感情的なものであろうと語義的に正確な物であろうと雑多なものであろうと最適解を追求していると思っていようが、命題追求をしていると思っていようが一切関係はないのです。


 自分がどう思っていようと、相手と意思の疎通が取れてないことには代わりが無いのですから。

ある意味では、これは、最適解追求やら命題追求やらの前段のはなしであり、またこれらの方法を行う前提の話として、この論破・論駁型と問題解決型の話があるとおいらは考えています。


 そして、もう一言言わせてもらうと、文章媒体によってこの論破・論駁ではない方向に議論を持っていくのは非常に難しいのです。これは、おいらの経験上そうであると言えます。会議室では、柔軟に議論をこなす人間がメールや書簡交換と言う形で議論を行うとやけにぶっきらぼうになったりする事が良くあります。どうしてそうなるかについては良くわかりません。今は閉鎖されてしまいましたが、こうさんがWEBでの議論の特徴としてあげていた議論に現れる時間の不確定性がその一因としてあるのかもしれません。また、やり取りのインターバルと一回に伝えようとする情報の量にも起因しているのかもしれません。また、何かを文章と言う形で書き上げようとすると、どうしても主張の形をとらざるおえないのも原因かもしれません。
 
 だから、論破・論駁型の議論に慣らされるなと言う話にはなるのであって、それをやめろと言う気にはならないし、WEB上で炎上と言う現象が起きるのはある程度やむおえないとも思っているのです。
 
 そしてまた、自分のスキルとして考えるのであれば、これは乗り越えようとしなければならない壁でもある、と。
 
 
 ・・・と書いて少しは話が前に進んでくれる事を祈りつつ。
posted by ウィル at 20:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 議論と交渉

■ 反論する技術 ■

うーん、やっぱりかみ合わない黒影さんとの議論
認識がどこでずれてるのかってのは黒影さんが書いてるとおりだと思うんだけどねー。

なんつーか、黒影さんの主張ベースで話を展開していくと話がまたまたループしそうなので
問題意識だけまただらだらと書いてみることとシマス。

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結局、おいらは論理・論駁型の議論が役に立たないと言う事で言いたい事は

相手の何かを否定する限り、常に相手そのものに対する否定と捉えられる危険性がある。
そして、意見や説の対立が起こるのは、大概の場合互いの問題意識・認識に関してズレがあるからであって、絶対的な「何か」に照らし合わせて正しい事や間違っている事があるからではない。むしろ、相手の主張・論理がなんらかの『矛盾』、『陰謀論』、『詭弁』と言った議論としてよろしくないと考えられる物に侵されていると見て取れる場合、それは『相手にとって重要だが、(相手にとって、または、自分にとって)認識されていない何か』を意識しないままに無理やり説明しようとしているからであり、その『その認識されていない何か』を掘り下げる事の方が『むりやり説明しようとしているその主張を否定・批判する事』より重要である。

と言うことなのです。

この場合、「議論の結果として相手のなにかが否定される事」と「議論の契機として相手のなにかを否定する事」を分離して考えてください。
おいらが道具として後者は否定しますが、前者は否定しません。

「議論の契機として相手の意見を否定する事」の問題点は3つあります。

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ひとつ目は、相手に「奴はおいらを否定してかかってる」と言う印象を与えかねないという事です。

 黒影さんにしろ、まるめさんにしろ、「人格と論理を切り離して」考えようとしている人間である事はわかりますが、世の中の人間が全て「人格と論理を切り離して」考えているわけではありません。
 
 おいらも「人格と論理は切り離して議論しうる」ものではあると思いますが、だからと言って「全ての人間は人格と論理を切り離している」とは思いませんし、「人格と論理は切り離して考えるべきだ」というべき論にも賛成できないのです。

 この事を踏まえると、人格と論理を切り離して議論しなければならないときは、まず議論の冒頭で、彼我の中でそれが切り離されるようにしなければならない。そのための方法論として「議論の契機として相手の意見を否定する事」は有用ではない、そして、切り離して考えるためにも「問題意識と認識をすり合わせる事を優先しろ」というのがおいらの主張です。

相手の意見の否定から論を始めた場合、その否定の対象は容易に「意見」から「相手」に転化しうるし、また、されうるのです。些細な例を挙げれば、ある相手の主張に対して「論拠が薄い」と言った後にボソッと「まだまだ青いな」とか「典型的な日本人だな」と言ってみたりね。(w

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ふたつ目は、彼我の論に執着するあまり、最初の問題意識に対して言及されなければならない『何か』を忘れる結果になりやすいと言う事です。

 これは、例えば「Aとは何か?」と言う問いに対して「AとはBである」と言う主張をした人間に対して「AはBではなくCである」と主張して反論する事は、「Aとは何か?」と言う問いから離れて、「AとはBなのかCなのか?」という問いに執着することになりやすい。(実際はDかもしれないしEかもしれないのに。)
#これについては、まるめさんも件のエントリのなかで「そうなってはならない」と言う形で取り扱っています。
 
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みっつ目は、相手の誤りに目が行ってしまっているあまり、相手の問題意識に対して無頓着になりやすいと言う事です。

 一見、何かについて語っているように見えても、問題は別のものである事が良くある。
 例えば、こういうことです。
 
  ある日、奥さんは探偵さんにこう頼みました。
 
 「内の人、絶対なにか隠し事してる。たぶん、誰かと不倫してるんだわ。絶対に許せない。あんたひとっ走り行って調べてきて頂戴。」

 探偵さんは数日、だんなの素行調査をした結果、不倫している様子は一切ないと結論。後日、探偵さんはそのことを調査経過も含めて奥さんに説明。奥さんは一応理解したものの、何か納得がいかないご様子。しかし、結果は理解できるものだったので探偵さんには対価を支払って帰っていただきました。
 
 そして、しばらく後に旦那が隠していたのは不倫じゃなくて、多額の借金だったのがわかったりするわけですが・・・。


 この場合、探偵さんは確かに奥さんの誤解は解いたわけですが、奥さんの抱えている真の問題を理解するにはいたっていないわけです。
#まぁ、もっともこの場合は探偵さんは与えられた仕事は一応きちんとこなしているわけですが。

 相手が主張した論にこだわる事は、相手が自分の抱えている問題を理解していない場合、それに引きずられてこちらも問題を理解しないまま論を進める事になる。その結果、相手には「何かを誤解していた」と言うネガティブな印象と自分が抱えている問題の両方を背負わなくてはならなくなるわけです。

 この「相手が抱えている問題」が相手にのみかかる問題であれば、まだいい。
 しかし、これがその組織やら社会やらにかかる問題だとすると、誤解を解いたという安心感がそれらの問題に対してフィルタをかけてしまっている事になります。これは、その社会にとっては由々しき問題です。


 学術や法廷といった議論される事が前提になっている場では、議論をする前にそういった目的に関して考える事がある程度システム化されており、そういった意味でこれらの事を軽視していきなりなんらかの否定論から入ってもあまり問題は無いわけです。 ただ、それは、あくまで「目的が場に支えられているから」であって、「目的意識を無視して何をかを語れる場があるから」ではないのです。

反論を反論として相手に受け入れさせるには、まず、それを受け入れさせるための土壌を彼我の間に作らねばなりません。つぎに相手の主張に対する反論として物を語る場合、それによって生じる「死角」に十分配慮しなければならない。そして、自らが相手の主張をベースに反論する場合、相手の主張を通じて何かを語る事によって生じる「死角」に十分配慮しなければならない。

そして、これらの事を実践するには「否定から始めずに、相手の目的・認識を引き出す事から始める『反論する技術』」が必要だと言う事です。

(つぎのエントリへ続く>>)


--参考--
304 Not Modifiedより
ブログを充実させるためには「反論」も必要

反論とは、「もう一度考えてください」と伝えたいだけなのです。

posted by ウィル at 12:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 議論と交渉

bullet020.gif2005年06月15日

■ うぉ〜。 ■

なんかモーレツに仕事が忙しくなってきて全然ブログの更新ができない。

…つーか、もーちっとゆとりもってやろうよ・・・。
(↑誰に言ってんだか・・・。)
posted by ウィル at 06:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

bullet020.gif2005年06月05日

■ こうさんへの回答(2) ■

で、その他もろもろの、前のエントリで言及されてない懸案は以下の3つになるのかなぁ。
まぁ、そーなのかどうかは確認もとらずにどんどん話を進めていく。
 
 1. ネットじゃいつ議論が始まるか定かじゃないし、お題が決まってる事も、相手が証拠を出してくるかも定かじゃないので、問題意識をすり合わせることが重要なのか疑問。
 
 2. そもそも問題のすり合わせをすると言う事は、ある議論に関して複数問題意識がある場合に他の問題点から意識をそらすまたは隠すと言う事にならないだろうか。
 
 3. そもそも、論破されるような意見の持ち主の問題意識なんざ取り上げるまでも無いと評価できるのではないか。


まず1.について。
 
 そんなのネットに限った話じゃございません。社会人の議論なんて言うと会議室でお題を決めて粛々と進めていくと言うイメージがあるのかも知らんが、そんなケースはおいらが知ってる限り極限られた幸運なケースでしかございません。
 
 おいらに言わせれば、だからこそ- つまり、お題が決まっていないからこそ、いつそんな議論になったのかが明確でないからこそ - 問題意識のすり合わせが重要なんだと思うんですが。(これは、前のこのエントリにもちらっと説明してあります。)
 
 逆に、おいらとしてはどうしてお題が決まっていないと問題意識のすり合わせが重要じゃないと言う議論になるのか良くわかりません。なんでそーなるのか、教えていただけると幸いです。
 

でもって、2.について

 妥協することはあっても相手の問題点から意識をそらしたり隠したりする事はないな。
 というか、おいらはそう言う「相手の問題点を無視する行為」を「問題意識のすり合わせ」とは呼んでいないです。(最初のエントリから一貫して自分と相手の〜と書いてるのはそう言う事です。)
 
 正直なところ、問題意識のすり合わせもしないでどうやって「相手の問題点を無視していないか」を確認するのか(あるいは確認しているのか)おいらには良くわかりません。どーやったら確認できるのか教えていただけると(ry
 
さいごに3つめ

 どう評価するかは「遊びの議論」の場合、その人の勝手です。そんな事にけちをつけるほど野暮じゃありません。
 しかし、何か問題を解決しようと言う議論なのであれば、問題意識のすり合わせに先んじて議論相手の評価に走った事そのものが後々禍根を残すでしょう。
 
 
 ・・・と、まぁ、こんな感じです。
 まぁ、もっともこっちの回答は、(1)の方の議論に納得していただければあんまり意味のあるもんじゃないと思いますが。
posted by ウィル at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 議論と交渉

■ こうさんへの回答(1) ■

で、こうさんのエントリへの回答なわけなんだけど。

 おいらの主張は「論破・論駁型の議論は役に立たない」と言う事でそれ以上じゃあないです。WEB上で散見されるとは言ったが、こー言う議論をするクソ親父は会社だろうと国会だろうとどこにでもいるわけで。そもそも、おいらが「これおかしいぞ?」と思い始めたきっかけになったのは「ゴー宣」だったわけだし。(まぁ、これはかれこれ10年ぐらい前の話になるわけだが・・・。)


 正直な話、こういうような議論の仕方をする人間が社会人として量産されると困るんだよ、俺みたいな人間が。
 そしてカリーさんだ。いや、あえてカリー君と呼ぼうか。正直、WEB上で議論ごっこして遊んでるだけなら何の問題も無い。勝手にやってろって感じさ。しかし、彼の場合、それを実社会でもそのまま(なのかどうかはしらんが)適用してしまって、結果、「問題の解決に失敗している」。(つるし上げるようで申し訳ないんだが、あえて強調させてもらう。)
 
 まぁ、こんな事は良くある事だ。それは上でも書いてるし、こうさんもあげてる。自分の言いたい事を大仰に主張して他の意見を圧殺してしまう政治ゴロ共。相手との目的・論点・認識のすれ違いに気付かずに延々と議論を続けたあげく、本来は調査と行動に割かねばならない時間を浪費し、プロジェクトを失敗に導く連中。週刊誌なんかの紙上討論を見たって、「本当に相手の主張の本意がわかってんのかこいつら」という不毛な議論をしている事もある。(まぁ、この場合に限って言えば、商業誌の都合上、ある程度エキサイティングな議論を演出しなきゃならんというところもあるのかも知らんが。)
 
 だが、そんな連中が例え多数派であったとしても、目的をすり合わせる事が議論において重要な事だという結論にはまったく代わりが無い。
 たとえそういう連中が多数派であったところで、そういう連中が「問題を量産している」現実には代わりが無いからだ。
 
 逆に、そんな理由で「論破・論駁型の議論を禁止しろ」といった類の主張をしたいわけでもない。
 それは、例えば、「どこぞのお子様のサッカー遊びのルール」が競技サッカーとあってないからといって、サッカー遊びを禁止しろと言う話にはならんのと一緒だ。これは場所がWEB上であれ、会社であれ、市井の議論であれ事情はなんら変わるもんじゃない。WEB上で社会に資する議論をしようと思うなら相手の問題意識に留意する必要があるとおもうし、逆にカフェやらバーやらで適当な議論を喧々諤々とやってるところに「あんたらの議論は社会の役にたたねぇからやめろ」なんていうのも野暮な話だ。
 

 変則的なサッカーにしても、論破型の議論にしても、遊びとしてやっている分には何の問題も無いし、学習として有効な面もある。
 だが、その「遊び」が「実社会」にそのままの形で適用できると思ってもらっちゃ困る。

 そして、そこらへんが自分で自制できる、あるいは制御できるのであれば、それはそれでいい。
 それこそ、勝手にやってろと言う話になる。

 だが、そもそもそれに気付いていないようであれば、誰かがその人間の目に届くところで注意を喚起する必要があるし、そもそも自制できないのであれば、誰かが「論破・論駁型の議論」と言うおもちゃをそいつから取り上げなければならないかもしらん。それはその時その人の状況に寄るだろう。そして、自らは自制が聞くと思っている人間に関しても、その人が他人に対して教育配慮をする必要が社会生活においてあるだろうとおいらは考える。
 
 そういった意味で、「論破・論駁型の議論は実社会じゃなんの役に立たない。」と言う事について、警鐘を打つ必要があるとおいらは考えるわけだ。これも場所がWEB上であれ、会社であれ、市井の議論であれ事情はなんら変わるもんじゃない。だからこそ、ブログでこんな風に書いているわけだし、会社でも部下にしろ上司にしろそこらへんに問題があれば一々補正するようにそれこそ教育なり説得なりしてるわけさ。


>>(2)につづく
posted by ウィル at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(1) | 議論と交渉

bullet020.gif2005年06月04日

■ 問題解消型議論と論破・論駁型議論 ■

え〜、とりあえず、こうさんに返事する前に、黒影さんとの認識あわせをば。

 結論から言ってしまうと、おいらの言いたかった事は黒影さんが推測した分類とはちと違ってたりする。
 
 そこらへんに関しては下の表を見ていただきたい。
 
hyou1.JPG
 
 …とまぁ、こんな感じなんだけど、不可解に思われそうなところを一点だけ捕捉しておくと、おいら分類的には、命題証明型の議論でも、問題点のすりあわせさえしておけば論破・論駁と言う事は起こらないと考えている。 議論する問題点・目的を共有している場合、目的・問題点に対する相手の主張の非正当性を説くという事は説得と納得への道筋であって、「相手を言い負かす」「相手を非難する」と言う話にはなりえないと考えるからです。
 そういう意味では、黒影さんの言うようにな命題証明型の議論が問題解決に役立つ」と言う事は、おいら的には「論破・論駁型の議論が問題解決に役立たない」と言う事と別に背反はしなかったりする。

 で、こんな風に黒影さんやplumnetさんにはおいらの問題点は汲み取ってもらえなかったんじゃないかな〜と思うわけなんだが、まぁ、あたりまえっちゃあたりまえだったりするわけだ。
 おいらは、前のエントリで論破・論駁型の議論についてなんら定義してないし、結論部分もほとんどなーも主張せずに書いている。正直どーとでも読めるエントリであるわけです。逆にこうさんとか、an_accusedさんとかはそれなりにおいらの問題意識を認識してくれたのかな〜という感じがする。(この場合、賛同してくれるかどうかはあまり問題じゃない。)
 
 で、そうやって現に生じてしまっている問題認識のズレは別においらの文章をよく読んでくれてるかどうかじゃなくて、エントリを起こすことによって与えられた「領域」に関する経験・問題意識等に依拠してるんじゃないかと思う。そして、その事に注意しなければ ーつまり、議論の目的・問題定義が必ずしも自他に自明でない事を勘案しなければー 議論なぞとたんに妙なものになってしまうぞと言うのがおいらの主張なわけです。
 
 例えば、黒影さんは「おいらが自分の言葉を定義していない」と指摘しつつも自分解釈でどんどんと批評に進んでしまった。まぁ、批評でとまるのであれば、全然問題ないわけだけど、ここで例えば第三者が割り込む、あるいは、おいらが「それは違う」と問題のすり合わせを無視して話を進めてしまうと議論はあさっての方向に進んでしまうわけです。
 
 そして、まぁ、まえのエントリの問題意識(そして次に書くだろうこうさんへの回答)になるわけです。はい。
posted by ウィル at 17:26 | Comment(0) | TrackBack(1) | 議論と交渉

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